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4話 白い箱

Autor: 九重有
last update Fecha de publicación: 2026-06-25 05:22:35

ホテルの自動ドアが閉まったあとも、愛梨沙は入口の前に立っていました。

硝子の向こうに、濃紺の背中はもう見えません。赤い爪の女も、白い小箱も、結婚指輪の細い光も、全部ホテルの中へ吸い込まれてしまいました。

外に残されたのは、白い手袋の女だけでした。

湿った風が頬に触れます。

愛梨沙は手の中の黒い缶を見下ろしました。もう中身はほとんど残っていません。ぬるくなった缶は、さっきまで男と同じものだったはずなのに、今はただ重いだけでした。

捨てる場所を探しました。

けれど、捨てられませんでした。

男と同じものを手放したら、今日の午後まで手の中から消えてしまう気がしたのです。

ホテルの自動ドアが開きました。中から年配の夫婦が出てきて、冷たい空気と花の匂いが少しだけ外へ流れます。外の湿気とは違う、よく冷えた空気でした。

愛梨沙は、その空気に誘われるように一歩踏み出しました。

入ってはいけない場所のように見えました。

けれど男は入っていきました。赤い爪の女も入りました。勿論、自分も外で待つ気はありません。

ロビーは静かでした。

床には厚い絨毯が敷かれ、靴音はほとんど吸い込まれます。花の匂い、磨かれた木の匂い、誰かの香水。雨の前の街の匂いは、ここでは少し遠くなっていました。

愛梨沙は黒い缶をバッグへしまいました。

その缶だけがこの場所に似合っていなかったからです。

男と赤い爪の女は、ロビー奥のラウンジへ向かっていました。黒い制服のスタッフがふたりに軽く頭を下げます。

「鴻上様、お連れ様がお揃いですね」

男が小さく頷きました。

鴻上様

その名前が、愛梨沙の耳に残りました。

鴻上。

男には名字がありました。

当たり前のことなのに、愛梨沙の胸は少し高鳴りました。名前のない背中だったものが、急に意味を持ったように思えました。

赤い爪の女は、男の隣で笑っていました。声は高すぎず、けれど甘さを作るのが上手でした。笑うたびに唇の端が少しだけ濡れたように光ります。

愛梨沙は少し遅れて、ラウンジの入口へ向かいました。

スタッフが声をかけてきます。

「おひとり様ですか」

愛梨沙は一瞬だけ息を止めました。

「はい」

声は思ったより普通に出ました。

「お好きなお席へどうぞ」

愛梨沙は、男たちから離れた観葉植物の陰に近い席へ座りました。そこからなら男の横顔が見えます。赤い爪の女の手も、テーブルの上の白い小箱も見えました。

注文を聞かれ、愛梨沙はアイスティーを頼みました。

本当は何も飲みたくありませんでした。

口の中にはまだ、黒い缶の苦味が残っていたからです。

男は赤い爪の女と向かい合って座っていましたが左手の結婚指輪は隠れていません。テーブルの上に置かれた手の薬指で、細い銀色が薄く光っています。

そのすぐそばに、白い小箱がありました。

愛梨沙が今日ずっと見ていた箱でした。

男が誰かのために選び、白いリボンをかけてもらった箱。

奥さんのものかもしれないと思った箱。

赤い爪の女はそれを見て、目を細めました。

「ねえ、それ?」

声が思ったよりはっきり届きました。

男は少し困ったように笑いました。

「大したものじゃないよ」

「うそつきぃ〜!拓哉くん、ちゃんと選んでくれてるもん。麻里亜、知ってるよ♡」

拓哉くん。

また、その呼び方でした。

男は怒りませんでした。訂正もしませんでした。赤い爪の女がそう呼ぶことを、当たり前のものとして受け取っていました。

愛梨沙の前にアイスティーが置かれます。グラスの中で氷が小さく鳴りました。

からん

乾いた音がして、愛梨沙の肩が少し動きます。

赤い爪の女は白い小箱を引き寄せました。

「開けていい?」

「ここで?」

「だめ?」

男は少しだけ視線を逸らしました。その顔は、叱る人の顔ではありません。困ったような、嬉しそうな顔です。

「いいよ」

赤い爪の女は満面の笑みです。

白いリボンに赤い爪が触れます。

愛梨沙は膝の上で、白い手袋の指をそろえました。

そのリボンは、男が選んだ白でした。

自分の手袋と同じ色だと思った白です。

誰にも知られないお揃いだと思った白なのです。

けれど今、その白は赤い爪の下にありました。

女の指がリボンをほどきます。細い白がするりと解け、箱の蓋がゆっくり開きました。

中に眠っていた赤がラウンジの柔らかな光を受けます。

薔薇の形をした小さなルビーのピアスでした。

愛梨沙は瞬きを忘れました。

ジュエリーショップの硝子ケースの中で見た赤。男が指先を近づけた赤。店員が薔薇の細工だと説明した赤。白い小箱の中で、誰かのために眠っていた赤。

それが今、赤い爪の女の前にありました。

奥さんなのかもしれません。

そう思おうとしました。

けれど、その女の笑い方も、男を見る距離も、白い箱に伸ばす指先も、愛梨沙の知っている「奥さん」という言葉から少しずつずれていました。

赤い爪の女は、息を小さく吸いました。

「え、これ、可愛いね」

その声は、少しだけ素の声に聞こえました。作った甘さではなく、本当に欲しかったものに触れた時の声でした。

男はその顔を見て、ほっとしたように笑いました。

「赤が好きだって言ってたから」

「覚えててくれたんだ」

「まあ、それくらいは」

「それくらいじゃないよ。麻里亜、大切にするねっ」

麻里亜。

赤い爪の女は、自分のことをそう呼びました。

愛梨沙は心の中で、その名前を拾いました。

麻里亜。

真紅の爪をした女。

薔薇のルビーを受け取る女。

拓哉くんと呼べる女。

拾いたくないものばかりが、ひとつずつ愛梨沙の中に入ってきます。

麻里亜はピアスを指でつまみ、耳元に当てました。

「似合う?」

男はまた、困ったように笑いました。

けれどその顔は優しかった。

「似合うよ」

短い言葉でしたが

それだけで麻里亜の口元がほどけます。

赤い爪が男の手に伸びました。テーブルの上で、ほんの少しだけ指先が触れます。男の左手の薬指には結婚指輪がありました。

それでも麻里亜は、その光を見ないふりをしているようでした。

男も、手を引きませんでした。

愛梨沙はグラスに触れました。

冷たい。

けれど黒い缶ほどではありません。

指先に残っていた缶の冷たさと、ホテルのグラスの冷たさが混ざります。自分の体だけが、この場所で少しずつ別の温度になっていく気がしました。

奥さんなのかもしれない。

そう思おうとしているのに、うまく思えませんでした。

赤い爪が白いリボンをほどいた時の音だけが、耳の奥に残っています。

するり

白がほどける音。

何かが、自分の中でもほどけてしまったような音。

麻里亜はピアスを耳に当てたまま、スマホを取り出しました。

「写真撮っていい?」

男の顔が少しだけ曇りました。

「ここではやめなよ」

「なんで?」

「目立つから」

「奥さんに見つかるから?」

その言葉が落ちた瞬間、愛梨沙の指先が止まりました。

奥さん。

この女は、自分のことをそう呼ばなかった。

白い箱は、奥さんのものではありませんでした。

男が白いリボンを選んだ相手は、妻ではありませんでした。

愛梨沙は膝の上で、白い手袋の指を握りました。

麻里亜の口から出た「奥さん」という言葉が、白い皿の上に落ちた小さな汚れみたいに見えました。

男は少し低い声で言いました。

「そういう話は、ここではしないよ」

「じゃあ、あとでならいいの?」

「麻里亜」

名前を呼ぶ声でした。

少し困っていて、少しなだめていて、少し甘い声。

愛梨沙はその声を聞いてしまいました。

ジュエリーショップで店員に向けた声とは違います。自動販売機の前で誰にも向けていなかった声とも違います。赤い爪の女だけが知っている声でした。

麻里亜は唇を尖らせました。

「はいはい。怒らないでよ」

「怒ってないよ」

「怒った顔してるもん」

「してないよ」

「してるもん。拓哉くんって、優しいふりする時ほど顔が怖い」

男は黙りました。

麻里亜はその沈黙ごと楽しむように、小さなルビーを箱の中へ戻しました。

蓋は閉めませんでした。

赤い薔薇は、まだ白い箱の中で光っています。

愛梨沙は目を逸らせませんでした。

奥さんのものではなかった赤。

麻里亜という女の耳に触れる赤。

男が選んだ赤。

男が覚えていた赤。

その赤が、少しずつ熱を持って見えました。

ラウンジの窓の外では、とうとう雨が降り始めていました。

細い雨でした。

音もなく硝子に触れ、透明な線をいくつも残していきます。

麻里亜が窓の方を見ました。

「雨降ってきた」

「傘ある?」

「ない。拓哉くん入れてくれるでしょ?」

「まあ、駅までなら」

「駅まで?」

麻里亜の声が少し沈みました。

「その先は?」

男は答えませんでした。

愛梨沙はグラスの中の氷がゆっくり溶けていくのを見ていました。

駅まで。その先。奥さん。白い箱。麻里亜。拓哉くん。

言葉がひとつずつ胸の中へ沈んでいきます。

沈んでも消えません。

底で赤く光るだけでした。

やがて男は伝票を手に取り、立ち上がりました。麻里亜も白い小箱を大事そうにバッグへしまいます。赤い爪がバッグの金具に触れて、小さく音を立てました。

かちん

その音が、愛梨沙の中で何かを閉じました。

男と麻里亜はラウンジを出ていきます。

麻里亜は歩きながら、男の腕に自分の手を絡めました。今度は袖口ではありません。もっと近い場所でした。

男は少し困った顔をしました。

けれど、やっぱり振りほどきませんでした。

愛梨沙は席に残ったまま、ふたりの後ろ姿を見ていました。

濃紺のスーツに、赤い爪が絡んでいます。その近くで白い小箱が揺れ、細い結婚指輪だけが、何も言わずに光っていました。

その組み合わせは、ひどく間違って見えました。

間違っているのに、誰も止めませんでした。

ホテルの人も、通りすぎる客も、男自身も。

愛梨沙だけが、それを見ていました。

ふたりが自動ドアの向こうへ消えたあと、愛梨沙はようやくグラスに口をつけました。

氷がとけて薄い紅茶の味がしました。

けれど舌の上には、黒い缶の苦味がまだ残っていました。

愛梨沙はバッグからスマホを取り出しました。

画面は暗く、そこに白い手袋の女の顔が映ります。目だけが、いつもより少し大きく見えました。

検索窓を開き少しだけ見つめました。

すぐには打てなかったからです。

指先が止まり

鴻上

拓哉

麻里亜

どの名前から探せばいいのか分かりませんでした。

今日、愛梨沙はたくさんのものを拾いました。男の名字、男の名前、赤い爪の女の名前、白い箱の行き先。それから、奥さんではない女に向けられた笑顔。

愛梨沙は画面を見つめたまま、白い手袋の指をゆっくり動かしました。

最初に打ったのは、男の名前でした。

鴻上拓哉

変換されたその文字を見た瞬間、愛梨沙の胸の奥で何かが静かに鳴りました。

こつん。

その音は小さいのに、しばらく消えませんでした。

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